Haruki's way

〜スペイン・この不可思議な国〜

阿吽の呼吸

バルセロナにある大聖堂。ベストセラーの"La Catedral del Mar"の舞台として知られています。

バルセロナにある大聖堂。ベストセラーの"La Catedral del Mar"の舞台として知られています。

もう随分前になりますが、向田邦子の「あ・うん」という本を読みました。そこで初めて、「阿吽の呼吸」の「阿吽」とは、口を開けた狛犬(阿形)と閉じた狛犬(吽形)から来ていることを知りました。その後、実はこの「阿吽」は金剛力士像のように対になっている像にも見られることを知りました。奥が深いです。

「阿吽の呼吸」とは、「二人以上で一緒に物事を行うときの、互いの微妙な気持ち。また、それが一致すること。」だそうです。親しい家族や友人同士でこの「阿吽の呼吸」があると、確かにものごとが早く進んで気持ちが良いものですよね。ただ、日本では、この「阿吽の呼吸」「空気を読む」ことを求められることが非常に多くて、それが皆を疲れさせる原因かなとよく思います。この気持ちは、スペインに住んで日本をちょっと離れて見るようになって、さらに強くなってきました。私の感じ方自体が既に日本的ではないかも知れませんし、一般化はできないかも知れませんが、例と合わせて思ったことをちょっと書きます。

スペインでは、電車の中でのマナーモードという概念がありません。マナーモードにしないどころか、電車の中で皆大きな声で堂々と話します。それが10-20分になることもしょっちゅうなので、時にはうんざりすることも。中には、着メロを何度もかけて曲として聴いている人も。これはさすがにうるさいので、時々私たちは音量を下げてくれるようお願いしますが・・・(^^;)

大聖堂の中にはにはアヒルが!

大聖堂の中にはにはアヒルが!

こんなスペインに住んでいる日本女性が、久々に日本に帰国し、新幹線にいる時に電話がかかってきたので話をしたら、近くのサラリーマンに「いい加減にしろ!迷惑なんだよ!」と怒鳴られたそうです。謝って、日本でのやり方を知らない旨を説明したら、「そもそも慣れとかより、空気が読めるかどうかの問題でしょ。」と言われ、後は無視されたそうです。

私の例をあげると、日本に帰る前に色々な人との予定を入れ始め、その後日本到着後に、まだ空いている日をピックアップして「この日は空いていますが、そちらに行っても大丈夫な日はありますか?」と連絡したことがありました。すると、特に直接は言われないんですが、「1週間前に、急にそんなことを言われても困る」「自分で予定をつめこんでから、空いた日を連絡してくるのは失礼」という感じが
言葉の端々に出ていました。そういうつもりではなかったんだけど・・・。

また、父の姉妹を訪ねようと思った時にも、父から「今からそんなことを言ったら迷惑になるし、そもそもお客さんを迎えるのはすごい負担だから、もう今回はやめなさい。」と言われ、結局訪問を打診することもしませんでした。これが日本の常識なのかな、とも思ったんですが、せっかく夫と一緒の帰省だったので、ちょっと残念でした。

子供達が本当に嬉しそうでした。

子供達が本当に嬉しそうでした。

スペインだと、その日のうちに予定を立てることもしょっちゅうですし、1週間あれば十分余裕を持っていることになるので、特にそれが失礼になることはありません。都合がつけばOK、ダメなら次回に。それだけなんです。そこに、相手を不快にさせる要素は全くありません。そして、一日は無理でもお昼くらいはどこかで会おう・・・なんてことに良くなります。

日本だと、その辺の取り回しをしっかりできていれば歓待されますが、そのルールに則っていないと、それはまるで礼儀を知らず、相手を考えていないことになって、相手に不快感を与えてしまうみたいです。特に年代が上の方だとその傾向が強く、「相手に不快感を与える可能性があるなら、今回は会わない方向に」ともなるようで。

昔はそれが普通だと思っていましたが、数年ぶりに会えるかどうかという時に礼儀を重んじて会わないことや、直前だからという理由で「空気を読んだ」末に相手に会わないことを選ぶのは、本末転倒ではないかと思いました。

私にとっては久々に家族や友人と会って話をすることは、何物にも代え難い貴重な時間です。だから、友人がマドリッドに来る時にはできるだけ時間を作るようにしますし、睡眠が削られようと我が家に招いて夜遅くまで話すこともしばしばです。(とは言え、スペインに慣れていると、規則正しい日本人の時間帯は楽勝のことが多いですが・笑。)そういうのに慣れてしまうと、この「空気を読んで、相手に迷惑をかけないように」というのが、「礼儀」が「親しい人との関係」に勝るようで、とても寂しいことに感じられるのです。

その他にも、電車の中で赤ちゃんが泣いていた時、皆が冷たい視線で親子を見ていて、母親が「すみません」と言って途中下車する様子には少なからず驚きました。友人の中にも、「子供が泣くからまだ電車に乗るのは気が引ける。」という人も多く、改めて「礼儀」という言葉の下で人が不寛容になっているのでは・・・と思いました。

日本は自分の国ですし、礼儀正しいことは美徳だと思いますし、大好きな部分も沢山あります。また、直前に会おうと言って会う友人もいますし、皆が皆儀礼的な訳ではありません。が、「阿吽の呼吸」「空気を読む」ことのせいで、人が必要以上に気を配るようになり、逆に人間関係が疎になっているのでは、と最近特に思います。皆さんはどう思いますか?

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2 Comments

  1. 京都、大徳寺内に阿吽の庭がありますよね。不思議な言葉の響きがあると思うのですが、京都に行くといつも『阿吽坊』という料亭へ行きます。
    礼儀の話は国が変わると違いがありますが、基本的にはスペインでお付き合いできる人は、日本的というか伝統的な古いスタイルの人が多いように思います。日本も変わりましたから表面だけでなく、本当に礼儀を知っている人にめぐり合うと人生が豊かになる感じがします。『空気を読む』というのも難しい作業ですが、必需行為に思います。
    しばらく日本に滞在しているので、今の日本の様子がどうかよく観察してみます。

    • 京都はまだまだ知らない場所がたくさんあるので、ゆっくり行ってみたい場所の一つです。
      阿吽坊、気になりますね。

      >基本的にはスペインでお付き合いできる人は、日本的というか伝統的な古いスタイルの人が多いように思います。

      それは面白い視点ですね。
      私が付き合う相手は色々ですが、日本とスペインでの一番の違いは時間の使い方だと感じています。
      ただし、本当にマナーのある立派な人というのは、どこの国にもいるとも感じますね。

      今回「空気を読む」のテーマでmixiの方で色々コメントをもらったのですが、問題は「空気を読め」と自分のやり方強要してくる人の姿勢であって、読むこと自体ではないのだなぁ・・・と実感しました。
      日本の文化には素晴らしい部分も沢山あると思うので、それを曲解して「これが日本文化だ」とはならないように気をつけたいものです。
      この辺り、スペインに来てからキリスト教に対して感じるものとちょっと共通している気もしました。